【長編】ベトナムをなめんなよ!
先週金曜日の午後、急きょ店舗で使う備品の買い出しに行くことになった
大事な備品であるが故、本来ならベトナム人所長が運転する社用車に乗って社長が行くはずだった
しかし、前日の無理が祟って体調不良を訴える社長
そこで、社長補佐であるわたしに白羽の矢が立った
「一人で行けますよね?」と無邪気な口調で問う所長
無理である
社用車で連れて行ってくれとまでは言わない
でも、いくら片言のベトナム語が話せても、経理のことはチンプンカンプンなわたし
それでなくとも、”うちの会社は外資系だから、当局の目が厳しい”と嘆くベトナム人経理担当者の声を毎日聞いている
先日も、ベトナム人調理場担当者が大量の備品を買いに行った際、レッドインボイスの内容に問題があり会計コンサルティング会社を巻き込む大騒ぎになっていた
ベトナム人でもそうなのだから、外国人のわたしには荷が重すぎる
そこで、苦肉の策として急きょわたしのお供役に選ばれたのが、総務部のL
その日めでたく2か月の試用期間を終えたばかりの新人
”ちびまる子”をちょっとぽっちゃりさせたような23歳の女子
「頼りにはならないが、いないよりはマシだろう」
こうしてわたしとまる子は、旧市街にある問屋街へ行くこととなった
ただ買い物を済ませた後は、わたしもまる子も事務所には帰らず、中心地からさらに離れた店舗に向かう
店舗で事務仕事をしなければならないまる子は、会社のパソコンを黒い大きなリュックに入れて背負っている
まるでランドセルを背負った小学1年生だ
さて、タクシーに乗り込んで少し経ってから、運転手がおもむろにこう言った
「今から旧市街に行って買い物するとなると、帰りが大変だよ。タクシーが捕まらないかも知れないから、待っててあげようか?」
見ると時計の針は既に午後3時を回っている
これから問屋街まで行って買い物するのに1時間掛かるとして・・、なるほど、すでに渋滞が始まる時間帯だ
でも、”タクシーが捕まらない”ってのは大げさだろう
しかも、しつこいほど”親切な”申し出をする運転手に「何か良からぬ魂胆があるのでは?」と疑ったわたしはキッパリこう答えた
「買い物にどれだけの時間が掛かるか分からないんで、待っててもらわなくても大丈夫です」
さて、会社から30分ほどで問屋街に到着したわたしとまる子は、小雨が降り出す中、お目当ての商品を探してめぼしい店を1軒ずつ回った
中国のゼロコロナ対策で、中国からの流通がストップしているので、いい商品があってもなかなか数がそろわない
前回、社長と来た時も同様の状況だったので驚きはしないが、実に口惜しい
結局、何とか手に入れた商品は社長が最後まで購入を渋ったデザインのものだった
しかし社長も事情をよく理解しているので、「他を探せ」とは言わない
そして商品の支払い
金額は合計約8,000,000ドン(40,000円)
レッドインボイスを出すよう頼むと
「出せるけど、2~3日待っとくれ」と店主
まる子は太くて短いクビを傾げながら、わたしに「今日中じゃなくて大丈夫ですかね?」と聞いてきた
2~3日後に出してくれるのなら経理上問題ないはず
でも、本当に大丈夫なのか確証がない
結局、チンプンカンプンなので、会社の経理担当者に電話をし、店主と直接話してもらうことになった
「なんだ、電話で経理担当者に解決してもらえるなら、まる子なんか連れてこなくても良かった」
こうして何とか支払いを済ませ、商品はそのままバイクで店まで送るよう手配した
今度は店舗へ向かうため、まる子にいつも利用するタクシー会社に電話で車の手配をさせた
しかし、待てど暮らせど車が来ない
苦情を入れると、すでに帰宅ラッシュの時間になっており、配車が追い付かないとの答えが返ってきた
何だかいやな予感・・
仕方が無いので、わたしとまる子はたくさん走っているタクシーの一台を止めた
でも、行先を告げると運転手は顔をしかめてこう言った
「えっ、そんな遠くまで行くの?お断りだよ!」
その後、何度も何度も車を止めたが、行先を伝えられた運転手たちは一様に首を横に振った
「嫌だよ!あそこまで行く道はものすごく混むんだから」
「あきらめた方がいい。この時間帯、そこまで行ってくれるタクシーはいないよ」
そうこうしているうちに渋滞はどんどんひどくなっていく
旧市街は、ただでさえ一方通行が多くて道が狭い
そんな通りの隅っこで、まる子とわたしはしばし呆然と立ち尽くした
どのぐらい時間がたっただろう
あれだけたくさん走っていたタクシーもほとんどいなくなってしまった
たまに見つけたとしても、すでにお客さんを乗せている
それでもまる子はタクシーを止めようと必死に手を振った
短い手足をバタバタさせながらタクシーに駆け寄るその姿が妙にコミカルで思わずわたしの口元が緩んだ
こんな時、一人じゃなくて本当に良かった
道を通るタクシーに片っ端から無視さら、すっかり気を落としたまる子がわたしに近寄って来て「こんな時、どうしたらいいんでしょう?」と言った
それを外国人のわたしに聞くか?
「分かんないけど、お腹空いたね」
道端でパテを挟んだバインミーを売っている屋台を指さしながら「あそこで腹ごしらえしよう」とまる子の背中をポンポンとたたいた
「あいたたたたたた・・」と両手で腰を支えながら、お風呂場で使うプラスチックの小さな椅子にゆっくり腰を下ろすわたしと、”バインミーをおごってもらえる”と喜ぶ無邪気なまる子
なんてこった
バイクがひっきりなしに行き交う道路の隅っこで、排気ガスを思いっきり吸いながら、ぺったんこのパンをかじる羽目になるとは・・
さほどおいしくもないバインミーだが、丁度、帰宅ラッシュの時間なのでひっきりなしに客が来る
もちろん99%テイクアウト客
中には、見るからに外国人であるわたしが道端に座ってバインミーをかじる姿をまじまじと見つめる者もいた
隣に座っているまる子とおかしなベトナム語で話していたのが興味をそそったのかも知れない
時計を見ると、すでに午後6時を過ぎている
社長は「5時までには商品を店に届けてください」って言ってたけど、無理だな
別便のバイクで先に運んでもらったのがせめてもの救い
さて、バインミーで多少お腹の機嫌は直ったものの、根本的な問題はまだ解決されていない
ここからどうやって脱出するか
仕方がない、最終手段であるグラブバイクを呼んでみよう
我が社では、基本、外出の際はタクシーを利用することになっている
タクシーを利用せず、事故に遭った場合、会社は治療費を出してくれないのだ
それで、グラブを呼ぶ前、ベトナム人所長に電話をした
「どうしてもタクシーが見つからないから、グラブバイク呼ぶよ。何かあったら会社が責任取ってね」
電話の向こうの所長も「そうですよね。この時間、旧市街からここまでタクシーで来るのは無理だと思います」と言って承認
ああ、これでやっとここから抜け出せる
希望の光に照らされて、アプリを操作するわたし
しかし、その光は「申し訳ございません。運転手が見つかりません」というメッセージが現れた瞬間、虚しく消え去った
そんなわたし達の様子を遠目で見ていた男がいた
グラブのユニフォームを着ているが、本物のグラブ運転手かどうかは分からない
何せグラブのユニフォームは街のあちこちで販売されているのだから
30歳ぐらいの日に焼けた男は、わたし達に近寄って来てどこまで行きたいのか聞いてきた
行先を答えると「この時間帯じゃあタクシーどころか、バイクも捕まんないよ。だれも大渋滞の中、あんな遠くまで行きたくないからね」と言った
「なら仕方がない、どっかのカフェに入って渋滞が収まるまで時間をつぶすとするか」そんな思いがわたしの脳裏をよぎった
しかし、そんな考えを遮るように日焼け男はこう言った
「オレが乗っけてってやってもいいぜ」
えっ、マジ?
「ただし2人乗っけんだから、グラブアプリに出てる金額の倍もらうぜ」
2倍??こいつ、アホか?!
「2倍なんて、話にならない。第一、3人乗りなんて絶対にイヤ!」
既に、頭ん中においしそうなコーヒーが浮かんでいるわたしに怖いものはない
足元に付け込んで、ぼろ儲けしようとする輩を即座に撃退した
ただ、道端に立っているといろんな人が声を掛けてくる
「オレンジ買わないかい?」
「落花生のお菓子、いかがですか?」
そんな声に交じって、またもや別のバイクタクシーの声
「どこに行くんですか?」
今度は20代の青年だ
やはり運転手を含めた3人乗りを勧めてきたが、わたしは断固拒否
まる子はベトナム人なので、3人乗りに抵抗は無いようだが、わたしは目先の解決策だけでなく、それが招く結果をきちんと考えるよう訓練された標準的な日本人
この大渋滞の中、バランスを崩して転んだらどうなるかぐらい想像がつく
特に海外旅行保険が切れてローカル保険会社の補償しか受けられない今、無茶な行動は絶対に慎むべきなのだ
そもそも法律違反の3人乗りで怪我をしたなんて言ったら、会社が100%補償してくれるかも定かではない
どうしてそう思うのか?
それは我が社の社長も、わたしと同じ常識観念を持った日本人だから
こうして2人目のグラブが去った数分後、3人目のグラブがやって来た
やはり3人乗りを勧めてきたが、さっきの教訓からかまる子は強い口調で「3人乗りは絶対にダメ!この人は日本人なの。ベトナム人じゃないのよ。だから3人乗りは絶対にイヤって言ってるの!」
声のトーンから、わたしの頑固さに少々嫌気がさしているようだ
そんな状況を素早く察したのか、3人目のグラブ青年はこう言った
「じゃあ僕がもう一台友達のグラブバイクを呼びます。バイクが2台なら問題ないでしょう?」
なるほど、悪い話じゃない
でも値段は?アプリと同額か??
グラブ青年は少し考えてこう答えた
「プラス30,000ドンでどうですか?」
30,000ドン、つまり150円か・・
まあ、いいっか
どのみち交通費として後で清算できるのだし
こうして、わたしは「先に行ってください」と手を振るまる子を残して3人目のバイクにまたがった
ハノイの旧市街を通り抜ける冷たい夜風が妙に気持ちよかった
「安全運転で、ゆっくり走ってよ!」という言葉に、運転手は「はい、もちろんです!」と返してきたが、正直、安全運転のバイクタクシーなんて見たことがない
しかも走り始めて分かったことだが、彼のバイクにはミラーがついていない
渋滞の時、他のバイクと接触して危ないからと嫌がる運転手がいるとは聞いたが、まさか自分が乗ったバイクがそうだとは
気付くのが遅すぎた・・
それでも彼の運転テクニックは大したもので、大渋滞の中、車とバイクの間をスルスルとすり抜けていく
丁度今は交通安全週間の真っただ中
道端に公安警察が立っていたが、警察はグラブを大目に見ているのか?
通常は取り締まりの対象となるミラーなしバイクなのに、警察は完全スルーだった
ホッと一安心したのもつかの間、大通りの坂を上り切ったところで目にしたのは、今までほとんど見たことがないくらいの大渋滞
目が届く範囲まで車やバイクの赤いテールランプが道路の隅から隅までひしめいている
「風の谷のナウシカ」で、大蟲が群れをなして風の谷を襲うシーンを見た時と同じ戦慄が走った
なるほど、4月30日の南部解放記念日から始まる大型連休前ともなれば、多くの人が故郷に帰る
しかもこの大通りは地方へ通じる大動脈
タクシーの運転手が拒否るのも無理はない
わたしを乗っけたグラブバイクの青年も「なんてこった」とため息を漏らした
それでも余分にもらえる30,000ドンのために、意を決したようだった
いや、そもそも彼はアプリで呼ばれたわけではない、30,000ドンどころか、全額彼のポケットに入るのでは??
まあ、そんなことはどうでもいい
とにかく無事にこの大渋滞を突破してくれれば、誰のポケットにいくら入ろうが知ったこっちゃない
思わずタンデムバーを握るわたしの手にも力が入る
車と車の間にはさまれ、他のバイクと何度も接触しそうになりながら、排気ガスに渦にまみれて進むこと30分
ようやく目的地のショッピングモールが見えたきた
モールへ向かう道は広々としていてもはや渋滞はない
わたしを乗せたミラーなしバイクは滑るように高架道路をくぐって目的地へ
「あそこで降ろして」とわたしが指さす方向にバイクを停めたグラブ青年
わたしは約束通り140,000ドン(約700円)を彼の手に渡した
「ああ、終わった」
美しく照らし出されるショッピングモールがまるで悪夢の終わりを祝福してくれているように思えた
そういえば、わたしがハノイで暮らし始めて今月でちょうど6年になる
最初の頃は途方に暮れることの連続だったが、ここでの生活にもすっかり慣れたせいか、最近は成すすべもなく呆然と立ち尽くすことなど全くと言っていいほど無かった
久しぶりに”堪能した”絶望感
「ベトナムを舐めんなよ!」と一喝されたような気がした